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仰ぎみる剣の道  〈第1回〉当たってない一本

 天才は、一を聞いて十を知る。何度言っても分からず、強く言われないと実行しない人では、話しにならない。剣道には、強く打たないと分からない人が、随分と居る。軽い打ちでも、十を悟る剣士になりたいものだ。

浅利又七朗の道

【当たってない一本】があることは、いつも話題になる。東大の師範をしていた恩師・青木秀男先生(皇道義会出身)が言ってたことは「審判して、当たらない打ちをとれるようにならなくては、一流とは言えない。」ということだった。同様のことを、小川忠太郎先生からも聞いた。小川先生は、剣と禅に通じ、剣道理念の骨子を作られた偉大な方です。

「稽古のときは、相手に打たれなくとも、触られただけでも、もうだめと思わなくてはいけない。名人と言われた浅利又七郎先生の稽古振りというのは、それはもう素晴らしいもので、相手にチョットでも間合いに入られると、サッと剣を引いて『まいった。』と言う。間合いだけで、分かってしまう。それが、打たなきゃ分からないようでは、まだまだなのだ。」とおっしゃった。

面小手付けて、剣道を楽しむのはいいが、剣道の真価は【修行させる】ところにある。修行の目的は、強くなって相手を打つことではなく、自分の至らないところを発見することである。そこには、無限の深さがあり、宗教をも超える剣の道がある。「当たっていない一本」をどう肯定するか──そこに真の道がある。

「面トル」の道

試合はね、審判が「一本!」と採れば勝ちのシステムだということ。実際はどうあろうと、審判次第で【当たってない一本】は、一本になる。しかし、当たってない一本では、決勝戦など、対戦者の待遇に天と地の差が出来るわけだから、負けた方は騒ぐし、第三者も意見が出る。勝った方は、穴でも掘って入るしかない。

だけどここに、こんな例もある。高三のとき、田舎で剣道大会があった。校庭にロープを張って試合場となし、一般人も含め十名くらいの参加者で、賞品を争う。賞品は、バケツやタワシなどの日用品。賞状はないが、結構盛り上がる大会だ。私は、幸運にも、決勝まで勝ち上がり、二十代の猛者と戦った。

剣先の強い方で、攻めると、迎え突きで一本を取らせない。手元の上がらない不動の構えに、なす術のなくなった私は、意を決し、突き抜かれるを覚悟で、腰を据えて、真向から面の大技に行った。ガンと行った瞬間、ザクッと突きが入った。見事に相打ちとなったわけだが。そのとき審判をしてくださった、恩師武田治衛先生は、迷わず、サッと手を挙げ「面トル!」と宣言した。

「面あり」ではなく「面トル」。初めて聞いた言葉だ。私は、面越しに武田先生の言葉を聞いたのだが、勝った喜びではなく、(ああーっ、先生の御指導は、ここだったんだ。)と、わずかながらも剣道を理解した喜びがあふれた。相手の方も、その判定を憤るではなく、ウンと頷いた。面を取って、すぐ先生に聞いた。「先生、面トルですか?」

「そうだな。技が優勢というわけではない。椎名は、突かれるのが分かって、死ぬ気で相打ちに行った。○○は、お前より腕は上だが、あそこは相打ちにするしかなかった。結果は五分だが心を取った。」

以後、私は、ずっと「面トル」を心に持っている。当たりをトレば、人は巧緻になり、相手を否定する剣になる。心をトレば、人は豊かになり、相手を理解する剣になる。剣道は、なにをトルべきか?それがいつも心にある。

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