第22回 ラスベガス・ジャパンタイムス「武士道」

メディア記事
  1. 信じるとは
    1. 私が、武士道に親しんでから、五十五年が経過した。五十五年の歳月の中で起こった、良いことも悪いことも、私を、一瞬たりとも、この道から離すことはできなかった。それは、私にとって、武士道が、どんな財宝や困難をも凌ぐ、とても素晴らしい道だということでもある。
    2. 武士道を学ぶということは、師を信じることであり、真の信頼は、命を捧げるほど厚くなくてはならない。そのためには、それまで両手一杯に持っていた見識を、全て捨て去り、生まれたばかりの赤子の心になって師に参じることが必要だ。前者を「覚悟」といい、後者を「無心」という。
    3. 私の武士道の師は、「武田治衛(たけだはるえ)」という先生だった。武田先生は、私に「私を信じるか」と聞いた。私は「信じます」と答えた。だがそれは、私の用意された答えだった。すかさず師は、次の質問を放った。「では私が、死ねと言ったら、理由を聞かずに死ねるか」といった。私は唖然とした。
    4. “はい”と答えたいが、そうすると、黙って死ぬしかない。“いいえ”と答えれば、信じると言った言葉がウソになる。絶体絶命の窮地に陥ったとき、私は、生まれ変わった。「覚悟」が出来たのだ。
    5. それを見て、武田先生は、さらに言葉を継いだ。「花を見よ」と、「遅く咲く花が最後に愛でられる。」つまり、先を急がず、無心になって稽古せよと示唆した。
    6. 爾来五十五年。私は、毎日が楽しい。そして、この楽しみを、誰かに分けたいと思っている。

信じるとは

私が、武士道に親しんでから、五十五年が経過した。五十五年の歳月の中で起こった、良いことも悪いことも、私を、一瞬たりとも、この道から離すことはできなかった。それは、私にとって、武士道が、どんな財宝や困難をも凌ぐ、とても素晴らしい道だということでもある。

武士道を学ぶということは、師を信じることであり、真の信頼は、命を捧げるほど厚くなくてはならない。そのためには、それまで両手一杯に持っていた見識を、全て捨て去り、生まれたばかりの赤子の心になって師に参じることが必要だ。前者を「覚悟」といい、後者を「無心」という。

私の武士道の師は、「武田治衛(たけだはるえ)」という先生だった。武田先生は、私に「私を信じるか」と聞いた。私は「信じます」と答えた。だがそれは、私の用意された答えだった。すかさず師は、次の質問を放った。「では私が、死ねと言ったら、理由を聞かずに死ねるか」といった。私は唖然とした。

“はい”と答えたいが、そうすると、黙って死ぬしかない。“いいえ”と答えれば、信じると言った言葉がウソになる。絶体絶命の窮地に陥ったとき、私は、生まれ変わった。「覚悟」が出来たのだ。

それを見て、武田先生は、さらに言葉を継いだ。「花を見よ」と、「遅く咲く花が最後に愛でられる。」つまり、先を急がず、無心になって稽古せよと示唆した。

爾来五十五年。私は、毎日が楽しい。そして、この楽しみを、誰かに分けたいと思っている。

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